ここにも東西の違いがありました。
東ローマ帝国(ひがしローマていこく、395年 - 1453年)は、 東西に分裂したローマ帝国の東方地域を継承し、オスマン帝国によって滅ぼされるまでの1000年以上にわたって存続した帝国。一般に「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」「中世ローマ帝国」「ギリシア帝国」とも呼ばれるが、これらの名称はどれも後世の人間による呼称であり、その政府や住民は自らの国を単に「ローマ帝国」と称していた。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ・イスタンブル)。中国の文献では「払林国(拂菻國)」と表記されている。
名称
しばしば「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」のいずれが正しい呼び方なのか、という議論があるが、当の帝国政府や住民は、自国を単に「ローマ帝国(ギリシア語:Βασιλεία των Ρωμαίων(Basileia tōn Rōmaiōn))」と称していたのであり、彼らが「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」といった呼び方をしたことはない。帝国の一般民衆は、自国を「ローマ人の土地」を意味する「ローマニア(Ρωμανία(Rōmania))」と呼んでおり、また彼ら自身も「ギリシア人(?λληνες(Hellēnes))」ではなく「ローマ人(Ρωμαίοι(Rōmaioi))」を自覚していた。
「ビザンツ」は、帝国の滅亡後、19世紀以降に使われるようになった通称である。これらの通称はあくまでも古代から1453年まで続いたローマ帝国の一時期を指す呼称で、以下に述べるようにいわゆる「古代ローマ帝国」とは文化や領土等の面で違いが顕著であるため便宜上用いられているだけである。
「ビザンティン」は英語の形容詞「Byzantine(英語により近い発音だと「ビザンティーン」)」に、「ビザンツ」はドイツ語の名詞「Byzanz(同・「ビュツァンツ」)」によるもので、いずれも首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来している。日本においては、おおむね歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。
カール大帝の戴冠による「西ローマ帝国」復活以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシア帝国(Empire of Greek)」「コンスタンティノープルの帝国(Empire of Constantinople)」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた。[1]
例えば桂川甫周は、著書『北槎聞略』において、蘭書『魯西亜国誌(Beschrijving von Russland)』の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。
このように自身が古代ローマ帝国の後継者であるとするのは、あくまで東ローマ帝国の側の主張に基づくのであって、その他の欧州諸地域では独自の立場から「東ローマ帝国」をさまざまに呼んできた。
しかし、西欧におけるこれらの議論に関しては、彼らが東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立してきた経緯や、議論がなされる中で東ローマ帝国の主張が彼らの価値観によって相対化されてきたことを勘案する必要があろう。彼らにとっては、カール大帝とその後継者たちや神聖ローマ帝国の皇帝こそが「ローマ皇帝」だったのである。
このような考え方に基づく呼称は、日本における呼称として適切・中立的でないとする見解もある。この立場は日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは「中世ローマ帝国」の呼称が提案されてきた。この呼称はなかなか普及しなかったが、近年、学校教育における教科書において採用されようやく一般の読書人にも知られるようになった。
(以上、ウィキペディアより引用)
すごい歴史ですよね。
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